あなたにおくる最後の言葉

弔辞など故人に向けた言葉を集めました





石坂敬一さんへ、湯川れい子さんからの弔辞

石坂さん、今日は本当に厳寒の2月だというのにいいお天気になりましたね。

昨夜は今日のお別れに際して何のお話をしようかなと思いながらウィキペディアを眺めてました。

敬一さん知ってた? あなたのウィキの画像って1万4000点以上もあるのよ。

ロックスターでも歌手でもないのに。

そう正にあなたはレコード業界のレジェンド、スーパースターだったんですね。

さっき、富澤一誠さんともお話してたんだけど、いなくなっても、存在感あるのね。

大学を卒業して、東芝音楽工業に入っていらしたのが1968年。

それからすぐにビートルズの担当として、お会いしましたね。

でも、今も強烈な印象として残ってるのは70年代に入ってからの頃。

さっきTレックスがかかりましたが、今の業界の語りぐさになっている、あのピンク・フロイドのアルバム「アトム・ハート・マザー」に日本語で「原子心母」というタイトルをつけたこと。

その後ローリング・ストーンズのアルバム「サム ガールズ」を「女たち」というタイトルにしたり。

当時はサイケデリック・ロックから後のプログレッシブ・ロックなんていうのが出てきた頃で、ビートルズが解散して、ベトナム戦争が終わって、ロックは反体制の音楽だなんて思っていたら、化粧した男たちが出てきたり。

なにやら有り難そうだけど、よく分からない。

そんなときにあなたはロックに、手触り感と見える感、イメージを自分の身体と目で見せてくれた最初の、そしておそらくは最後のミュージックマンでした。

お酒が入らないとあまり喋らない人だったけれど、髪をヒッピーのように長く伸ばして、厚底でヒールの高いロンドンブーツを履いていたのは有名な話です。

指は常にピンクとか赤のマニキュアをつけて、昼間はその格好でラジオ局を訪ねてくるとレコードを見せながらどこか少年のようなあどけなさの残る目でじーっと見つめて、「ね、これいいんですよ、いいんですよ」って。

今の石坂さんを知ってる人たちと話すと「石坂さんの目が怖かった」、「いつも据わった目をしていて、あの目でギロっと睨まれるとすくみ上がった」という人がいますけど、でもウィキの写真を見ても昔も今も一生懸命な、一途な目をしていたのよね。

そして夜は麻布にあった団長のお店、スピークロウであなたはワーナーの折田さんや今野雄二さんや、色んな人と午前1時や2時まで飲んで、それからさっさと遠い国立の家に帰って翌日のラジオの用意や原稿を書いている私に夜中の2時3時、必ず電話をくれて。

熱く熱くロックや夢やアーティストの話をしていましたね。

いい迷惑だったけど、かわいかった。

それでその石坂さんが突然恋をして、結婚することになって、日本にビートルズを呼んだ、私と石坂さんの両方にとっての憧れのヒーローだったキョードー東京のファウンダー 永島達司さんのご媒酌で結婚式を挙げたあと、「新婚旅行に行っても花嫁さんと2人で何を話していいか分からないから付き添いできてください」って言われて。まだ私も新婚2年目くらいだったから、一緒にハワイに行ったのよね。

今日式場の外にアロハシャツを着たあなたの写真がありましたけれど、あの時の敬一さん、美しい奥様と2人で並んで、ずっと1日幸せそうに海を眺めていたね。本当に幸せそうでした。

でも敬一さんが本当にすごかったのは単に洋楽好きのボンボンだったということではなくて、ビジネスマンとしてのお父様、石坂範一郎さんを心から尊敬していらして、常に事業の効率、社員を食べさせるということ。

ひいては日本という国を育てていくという夢に神経を使って、寝ても覚めてもどんなときも背中に日の丸を背負って戦ってきた人だったんですよね。

それも誠実に、ひたすら誠実に。

そのことは忌野清志郎さんの原子力発電に対する強烈なメッセージソングが入っていたアルバム「COVERS」を、東芝を親会社とするEMIから出せないという騒動のときのエピソードに痛いほど輝いていましたけど、もうそれだけで話が長くなってしまうので。

その後、約束通り40代で見事にユニバーサルミュージックの社長となったあと、外資系の会社にあって、日本には日本の文化と音楽とビジネスのやり方があると言って、邦楽制作の強化に力を注ぎ、レーベルを超えて邦楽アーティストの売り出しに手を貸し、たくさんのアーティストを育てられたことは、古くは内田裕也さんとクリエイションの話、BOφWYや矢沢永吉さん、長渕剛さんなどエピソードには事欠かないことでしょう。

いつもお会いすれば訥々と熱く、音楽の話でした。

そしてみんなもっともっと広く深く音楽を聴いてほしいという話でした。

特に音楽の作り手や売り手であるミュージックマンには音楽を聴いて愛して、自分の美学、哲学を持って欲しいと。

大会社の社長や会長になって、レコード協会の会長なども歴任していらした頃からでしょうね。

多分、藤倉さんのような立派な後輩が育って安心したのかもしれないけど、お酒の量がどんどん増えていきましたね。

心配していたけど、でも、頭はいつもしっかりしていました。

そして一昨年の11月、旭日中綬章をうけられた後のお祝いのパーティでも、昨年6月の私の傘寿のパーティでも、とっても嬉しそうにスピーチをしてくださって、よかった。

とにかく、飲むだけ飲んだよね。

音楽を愛して、日本をこよなく愛して、音楽と愛する人達に誠心誠意尽くすだけ尽くして、私はきっと悔いの無い人生だったと思っています。

あなたはいつも大きな志と夢と魂を持ったロマンティスト。

永遠に少年のようなサムライでした。

ほんっとにありがとう。お疲れ様でした。

敬一さん、ずっとずっと愛しているよ。

魂の弟のような人でした。また、銀河の向こうで会おうね。

(2017年2月8日 東京・青山葬儀所「お別れの会」にて)

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石坂敬一さん:元ユニバーサルミュージック / ワーナーミュージック会長、現オリコン社外取締役。2016年12月31日に虚血性心不全のため永眠。享年71。

湯川れい子さん:音楽評論家、作詞家