石坂さん、こんなところで、お別れの会で弔辞を読むなんて思ってもなかったです。
すごく悲しいんだけど、しっかり読めるかどうか…やりますね。
渋谷から霞ヶ関に向かう六本木通り。そこにどーんとそびえる東芝EMI。
今から数十年前、石坂さんはそこにいらっしゃいました。
当時新人の僕は用がなくても机にいました。
ゴージャスなフロントを通り、エレベーターで上がる。
「石坂さんまた歌ができたよー!」アポも取らず本部長の石坂さんの部屋を尋ねていきました。
「おっ、いらっしゃい」。このまんまのお顔で、真っ直ぐな姿勢でいつも瞳を大きく開いてお話になられていました。
ときに微動だにせず、「この前デモテープの3曲目、僕が作ったが、あれはまさしく君の原風景だ。士風の音楽の香りがして実に良い」と言い切り、口をすぐさま無一文に結び、ずっとまた僕を真っ直ぐに見るのです。
そして石坂さん独特の間があり、僕はなんて答えていいか分からず。
すると、ふいにニコっと笑い、少年のような茶目っ気の顔で「ありがとう、またいつでも来て」。
そして決まってキャピトル東急ホテルのコーヒーをいつも飲みに連れて行ってくれました。
次に思い出すのは僕が30代。
あのとき、3人でしこたま飲んだのを覚えていらっしゃいますか。
あの頃の僕のオフィスの半地下で、石坂さんとノンフィクション作家の高山文彦と3人で焼酎を一升空けましたね。
飲んでも決して崩れない方だとお聞きしていたので、僕らも気合いを入れて臨みました。
そのうちテーマが三島由紀夫は何故自決したのか、という大変重いテーマに変わり、酒も大分まわり、しかし白熱の議論。
作家の高山がさらにふっかけるもんだから、ほとんど答え出ずのまんま、僕はお二人の仲裁に入りました。
そしたらいきなり石坂さん「相撲とろうよ!」。
相撲、何故相撲。
学生時代、相撲部だったんですね。
僕は経緯を全くお聞きしていなかったのであのときはびっくりしました。
僕達3人は午前4時をまわり、石坂さんはお聞きしてたとおり、全く崩れることなく椅子に深く座り、足を組み、グラスを持ったまま石のように眠っておられました。
「石坂さん!石坂さん帰りましょう!」
「行こう。実に楽しかったよ」
僕の運転手が運転する車でご自宅までお送りしようと「石坂さんこの通りどっちですか」「右」「はい、次は?」「左、ああ間違った右だ」「はい」「あ、その突き当たりを左に曲がりすぐ右」「わかりました。着きましたよ、石坂さん」すると石坂さんが「風景が違うな」。
気が付いたら早朝1時間半のロングドライブでした。
その次の日、石坂さんはポリグラムに就任なさいました。
それから1か月もしないときに電話がかかって「ポリグラムにおいで」。
流石にそういう訳にいかず。でもとっても嬉しかったんです。
そして8年前、僕はユニバーサルレコードに。
この僕を支えてくれたのも石坂さん、あなたでした。
レコード会社を移籍したその日、ユニバーサルスタッフ総勢で出迎えてくれて、石坂さんはみんなの前でこう仰られたんです。
「おかえり」。
おかえりって、もうそんな人どこにもいません。
レコード会社の重鎮の方々と気さくに話せる場をどこでも作ってくださり、僕はそうやって石坂さんに引っ張っていただいたのだなと、つくづく思います。
だからやっぱり、石坂さんがいないと困ります。
でもどんなことがあろうとも僕は詞を、曲を書き続けますね。
だって約束したんだから。
さらに頭を掻きむしり悩み続けていきます。
そして歌を正し、歌に呪われ、歌に傷つき、そして歌に喜ぶ。
例えば歌が残っていくときに間違っていたか正しかったかを自分でわきまえようと思います。
もしも間違ったら、人生の譜面に爪を立てて引きちぎってやります。
もしも歌で幸せを感じたならば、その譜面を抱きしめて空を見ます、「石坂さんできたよ!」って。
長年、私たち音楽人のために命ある限り、大切なことを教えて頂いてありがとうございました。
たくさんを愛情をありがとうございました。
僕たちはさらに歌を書き続けてまいります。
どうかどうか見守っていてください。
(2017年2月8日 東京・青山葬儀所「お別れの会」にて)
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石坂敬一さん:元ユニバーサルミュージック / ワーナーミュージック会長、現オリコン社外取締役。2016年12月31日に虚血性心不全のため永眠。享年71。
長渕剛さん:シンガー・ソングライター