森光子さん。50年ぐらいの間、優しくしていただきました。
生放送のなか、切り抜けてきましたね。
そのころの森さんは、『コピー機』と言われるぐらいセリフの覚えが早い方でした。
NHKの専属だった私が、フリーになるのでマネージャーを探していたとき、ご自分のマネージャーを紹介して下さったのも森さんでした。
長いこと同じ事務所でした。舞台でも、どのぐらいお世話になったか分かりません。
森さんは本当にユーモアのある方でした。
50年近く前、芸術座で『縮図』という徳田秋声の芝居をご一緒しました。
菊田(一夫)先生の脚色でした。
私も森さんも、東北の芸者でした。
ある日、出る前に、森さんの部屋で私は、アメリカのイサドラ・ダンカンというダンサーは、首に長いスカーフを巻いて、オープンカーに乗ってたらスカーフが車輪に巻き込まれて死んだそうです、と言ったら、森さんは『かわいそうね』と言って本番になりました。
雪の河原で、お金持ちの坊ちゃんに捨てられた森さんが、うずくまって泣いていて、私が助け起こすシーンでした。
私が冗談めかして『なしてこんなとこさ寝てんだい』て言って抱き起こすのです。
私が抱き起こしたら、森さんが小さい声で『イサドラ・ダンカン、イサドラ・ダンカン』とおっしゃいました。
気がついたら、私は森さんが首に巻いてらっしゃる薄いスカーフを下駄で踏んで持ち上げたので、森さんの首が絞まってたんです。
その瞬間的なユーモアに、私は自分が悪いのに、感動していました。あなたはそういう方でした。
私がニューヨークに1年くらい留学と称して休養に行った時、ある日、森さんからお手紙が来ました。
体に似合わない大きな字で『お小遣い困っていませんか。いつでも言ってね』と、私は、泣きました。
『放浪記』の最後の頃に出させていただいたとき、『徹子ちゃん、好きなようにやってね。何もとらわれないでね。そうすれば私も変われるかもしれないから』。
2000回になろうという時、まだ変わろうとしていらした森光子さん。
『あなたとお食事に行きたいから、リハビリしてます』。
これが森さんから最後にいただいたメッセージでした。私は楽しみにしていました。
森さんは必ず、また舞台に戻っていらっしゃる。
私はそう信じていました。残念です。
森さんが一番残念だと思っていらっしゃるでしょうね。
ですから、いまも『放浪記』の最後のシーンで、机に寄りかかって寝てらしゃるのだと思っていますね。
森光子さん、女学校の上級生と下級生のような関係のまま、50年以上お世話になりました。
こんなつらいお別れは、ありません。
森さんの女優魂は、私たち後から行く者を導いて下さるものと信じて生きていきます。
本当にありがとうございました。
(2012年12月7日 東京・青山葬儀所での葬儀にて)
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森光子さん:女優。2012年11月10日、肺炎による心不全のため永眠。享年92。
黒柳徹子さん:女優、タレント。