あなたにおくる最後の言葉

弔辞など故人に向けた言葉を集めました





徳光和夫さんからザ・デストロイヤーさんへの弔辞

 

 今年、平成最後の2月19日。ジャイアント馬場没20年追悼試合の日。ブッチャーにマスカラス兄弟に、そしてドリー・ファンク・ジュニアに数十年ぶりに会うことができました。しかし、その場に当然いなければならない白覆面のあなたの雄姿を見ることができませんでした。

 息子さんが日本語で「父は今、歩けない。車イス状態なので来日できず申し訳ありません」と報告してくれました。あの日、私が一番会いたかったのはあなたでした。

 そして、その数か月後、悲報が届きました。ショックでした。

 息子のカート君からも、もっと詳細を聞いて病状をもう少し知ることができていたなら、会いに行けたかもしれません。悔しさがこみ上げ、その日はあなたと一緒にグラスを交わしたバーボンを飲みながら涙が止まりませんでした。

 デストロイヤーさん、あなたは、大変、魅力的な人でした。

 我が国のテレビの普及はプロレスが負うところが大きいと言われております。敗戦国として打ちひしがれておりました国民を勇気づけたのはプロレスの力道山でした。

 当時のテレビ中継で江本アナウンサーは「五尺七寸五分力道山が六尺四寸の大男マイク・シャープを胸よりも高く差し上げマットにたたきつけております。日本男児の強さは、健在であります。観客はもちろん、国民の目にも涙。私も泣いております。力道山強し」

 その強い力道山が苦戦を強いたこともあるレスラー、ザ・デストロイヤー。白覆面の魔王の4の字固めは強烈なインパクトを日本列島に与えました。

 そんな日本のマット界でのあなたの戦いぶりは、アマレスとアメリカンフットボールで鍛え抜いた強靱な体力、スピード、スタミナ、そして体を一回転させたフィニッシュホールド、フィギュア・フォー・レッグロック、4の字固めは日本のリングを席巻し、やがて外国人としましては初めてのリングアナウンサーが「ザ・デストロイヤー」とコールすると客席から大拍手が沸き起こる、そんな現象を醸し出しました。

 そして、肝胆相照らす間柄となったジャイアント馬場さんとは、ビジネスパートナーともなり、リング上では大胆な受け身を取り、相手レスラーの良さの引き出し役になり、やがて、テレビ局のバラエティー番組の赤尾ディレクターがあなたのリング上の歩くパフォーマンス、決め技の4の字固め、それを中継しておりました私も込みで番組に登場させるということを考え、和田アキ子さんの「金曜10時!うわさのチャンネル」に出演することになりました。

 次々と名だたるタレントさんたちに4の字固めをかけ、名物コーナーとなりアッコさん、せんださんの盛り上げサポートもあって、夜10時に毎週40パーセント近い視聴率を獲得。社会現象として受け止められていく一方で当時のPTAからは、ワースト番組ナンバーワンという冠までいただきました。

 そして、私も実況をしながらあなたの4の字固めの洗礼を受け、「やめろ!この野郎!激痛手当をよこせ!」などとアナウンサーらしからぬ発言をしたことで、その後、ニュースを読むこともなくなり、バラエティーアナウンサーという新しい肩書を得ることになりました。

 しかし、そのことが後の情報系番組や歌番組の司会に結びつき、今になっていることを思いますと、今日、78歳まで現役を続けられるのは、あなたにかけてもらったあの錐で刺されたような激痛が脳天を突き抜けた4の字固めのおかげであると確信しております。

 そして何よりも、あの「うわさのチャンネル」からあなたとの友情が生まれました。私の地元である茅ヶ崎の青果市場特設会場で試合があると必ず我が家を訪ねてくれましたね。ジャンボ鶴田さん、渕正信さん、そしてあなたがあの小さなホンダシビックから降りた時、近所の人たちが大笑いしたことが昨日のように思い浮かびます。

 今、あなたのあのダミ声のジョーク、マスクを取った時のオバQそっくりの笑顔、そして知的な会話、好奇心の旺盛さ、そのすべてにピリオドを打ち旅だってしまったと思うと改めて無念さがこみ上げてまいります。

 私にとりましてあなたは、ザ・グレーテイスト・マン。最高の人物でした。

 青コーナー、180センチ、228パウンド、ザ・デストロイヤー!
ミスター、リチャード・ジョン・ベイヤー 
ディア ディック 
サンキュー、フォーエバー 

 

2019年11月15日 追悼興行「ザ・デストロイヤー メモリアル・ナイト〜白覆面の魔王よ永遠に」東京・大田区総合体育館